或る祝日、Sさんはその日の夕食に赤ワインを飲もうと、近所のスーパーに出掛けました。アルコールに余り強くないSさんはワインを月に一、二本嗜む程度で、ワインの知識は殆どありません。さてワイン売り場を物色していると、整然と林立するボトルの中に、「樽熟成」という文句を大々的に掲げている品がふと目に入りました。ここでSさんは思います、「樽熟成ねぇ…」。すると不思議な事に、ラベルこそ違うものの、隣にある全く同じ仕様のボルドータイプのいかり肩ボトルとは歴然とした差を感じる高級感が漂って見え始めました。同様のいかり肩で、デスクワークによる肩凝りに悩むSさんは肩の筋肉を解すかのように手を伸ばしてそのボトルを掌に握り、コンプレックスのガッチリとした容姿に親近感を感じたのか、睫毛に触れるほど近付けてじいっと裏ラベルを見分し出しました。そして32秒経過、細々と記載された商品情報を一通り読み終え、その中の「樽熟成によるリッチな味わい」という言葉に、どうやらSさんの心もリッチに為ったご様子です。こうして無事に夕食の「牛ステーキのシャリアピンソース掛け」のお供が決まりました。
帰宅する道すがら、夕焼け空に浮かぶ一抹の雲の様に、Sさんの脳裏に一つの疑問がぼんやりと浮かんで来ました。「リッチなのは分かったけど、結局具体的には何がどう違うの・・・?」
しかしそんな悩みもどこ吹く風、空腹と渇望感に襲われ、自宅玄関に到着する頃には跡形も無く消えておりましたとさ。
──ワインを飲み慣れていない頃、ワイン愛好家の皆様もSさんと同様の経験をした事があるのではないでしょうか? そして未だこの「樽」についての問題に解決を迎えていらっしゃらない方々、辛抱して本稿末までお付き合い下されば、その疑問は十二分に晴れる事請け合いです。
目次
1.歴史
実のところ、洋樽の起源は判明しておりませんが、紀元前には作られていたようです。良く知られたところでギリシアの哲人ディオゲネス(B.C.412∼323?)が大樽に住んでいたという逸話がありますが、それはギリシア語では粘土製の大きな容器を意味していました。
洋樽の最古の記録はギリシアのヘロドトス(B.C.485∼420頃)の『歴史』にあり、そこには、バビロニアのユーフラテス川の上流から来る船が葡萄酒を椰子の木板製の樽で運搬していた事が記述されています。同じくギリシアのストラボン(B.C.63∼23頃)の『地理学』には、ガリアでは住民が大樽を作っているが、内部にピッチを塗る技術が進んでいると書かれています。又、大プリニウス(A.D.22∼79)の『博物誌』によると、アルプス付近のガリア人は箍(たが)を嵌めた木樽に酒を入れているが、暖かい地方では長楕円形の甕に酒を入れ、気温に応じてその全体または一部分を地中に埋めていたそうです。この事から、当時のローマ周辺においては樽はまだ一般的に使用されていなかったと考えられています。
大酒飲みのガリア人は麦酒(ビール)や蜂蜜酒(ミード)を大量に飲む為に大形の容器を必要としました。そして彼等は、飲料水用としては勿論、ビールの貯蔵・運搬用に木樽を積極的に使い出したのです。木樽製造には木と金属が使われますが、それらは彼等が最も好む素材だったのであります。
一方、ローマ人が葡萄酒(ワイン)の貯蔵・運搬用に使用していたのはエジプト以来のアンフォラと呼ばれる取っ手付きの土器で、それは時代と共に形を変えていきましたが、後期には底の尖った細長い形になりました。それらは持ち運び易く、また船底に積む際には横に寝かせて置けば安定し、ある程度の積み重ねがきいて便利だったのです。立てて置く時も細長いので場所を取らず密に積め、更に木栓を嵌め、蠟や樹脂で密閉する事も可能でした。これは現在の瓶と同じくらい気密性が高い為に変質しにくく、貯蔵に最適でした。ただ難点としてはその重さと、陶製ゆえの壊れ易さでありました。(空のアンフォラは、中に入るワインと同じ重さで、ローマ製は約26L、ギリシア製は約40L。因みに樽はワインの約10分の1の重さ)
そして3世紀、ローマ軍はガリアを侵攻した時に、ガリア人が使っていた樽に目を付けたのです。樽は軽くて弾性が有り、転がす事が出来たため扱い易く、何よりも丈夫で壊れないのが有り難かったのだと推測されます(因みにカエサルは『ガリア戦記』の中で、ガリア人が樽の中に燃えた松脂を入れて転がして武器として使った事を書いている)。高い湿度でより寒冷な北部の気候では樽が便利だった為、次第にローマ人もワインの貯蔵と運搬に樽を用いるようになりました。そしてしばらくする内に、彼等は或る事に気が付いたのです。それは、半年から1,2年ワインを樽に入れておくと美味しくなるという事でした。樽熟成における化学的過程ではなく、結果を経験で知ったのであります。そうしてローマに樽職人が現れ、運搬により都合の良い形態や構造に工夫を凝らし、彼等は木の材質をも選ぶようになりました。アカシアやポプラ、栗等も使ったようですが、最後はオーク樫に絞られました(オークを「樫」と訳すのが日本の定説になっているが、樫よりは「楢」に近い)。それは、強度や耐久性に優れ、水漏れしにくく、加えてワインへの風味の付加と酸素供給の点でも理想的な素材であったからです。こうしてワインは、樽とは切っても切れない関係になったのであります。──とは言え、樽がワインに与える影響を考えて、樽の使用を色々と工夫するようになるのはずっと時代が下り、近代に入ってからであります。ましてその変化の化学的分析(緩慢な酸化と、樽材成分の吸収、そして樽熟成の限界)が行われ、樽熟成を意図的、積極的に行うようになったのは20世紀に入ってからでしたが、とにかく樽の使用はワインに革命的変化をもたらしたのです。ワインは樽と結ばれて一変したのであります。
ローマ帝国の巨大化は経済、詰まり輸入という商業と、農業という産業の面でも変化をもたらしました。領土拡大から戦利品として占領地の産物がローマに運ばれるようになり、貢租品または輸入品として大量のワインもなだれ込んで来たのであります。土地の支配形態が変わって来ると貴族や大商人が領地を所有し、零細農家の原始的で素朴な耕作から一変、大規模農業が経営されるようになりました。そして農業が大産業に為って来ると、農産物の中でワインが大きな利潤を生むものであると知られるようになりました。そうして生産と流通が生まれて来たのです。
11∼13世紀の十字軍時代、聖地に向かったキリスト教徒は樽に色々な物を詰めて運び、14世紀にはヨーロッパ各地に樽職人の組合が出来た事が分かっています。
樽は、その高値を支払える者にとっては船での輸送や貯蔵容器として最も便利な物でした。船の積載量の単位としても用いられるton「トン」の語源は、tun「大酒樽」の意味で、空の樽を叩いた時の音に由来します。又、樽は液体の容器のみならず、釘から金貨まで、あらゆるバラ荷を入れる為にも用いられました。袋や木箱はより安価でしたが、同じ重さの樽ほど頑丈ではなかった上、取り回しに不便だったのです。しかしながら20世紀になるとパレットを用いた物流とコンテナ化が導入され、その普及と共に樽はゆっくりと主役の座を失う事となったのであります。しかし驚くべきは、二千年近くの間、樽製造業・樽職人の技術には殆ど何の変化も起こらなかったという事です。歴史の趨勢として、樽の形は短く、胴太には為って来たものの、それ以外に殆ど変化が無いというのは、それだけ当初から完成されたアイテムであるという事なのです。
2.構造
ヨーロッパで伝統的な樽は木の板(樽板)とそれを縛る鉄の輪等の箍で作られていて、胴の側面は中央部が膨らんだ円筒形。側壁を構成する板材を、箍で結束する事で強度を保つ構造(胴が円く、更に樽板の上下にも曲線が付けられている為、建築構造上の「2重アーチ」で、今日の工業知識から見ても最強の構造を示している)。すぼまっている方に向かって底板を嵌め込む事により、荷重は箍によって支持され、液体を入れるとそれを吸った板が膨張してより密閉される。釘や接着剤等を使用せず、木材由来の成分を除いて内容物に不純物が溶出する事も無い作り。中間の膨れを作る事で、横にすると摩擦面が小さくなる為、比較的容易に方向を変えつつ転がす事が出来るようになり、また容器がより球状に近くなる為、材料の中で生じる負担が均等に分散される仕組み。
3.製造工程
(1)樽は西洋では「森の王様」と呼ばれ、漢字では「木を尊ぶ」と書くように、敬意をもって、真っ直ぐに生えたオークの木が伐採される。「質は森から始まっている」とは職人のお言葉。
(2)丸太のまま自然乾燥、そして板挽き。板挽き方法には「柾目取り(中心に向かい放射線状に木目に沿って6つに割る方法)」と「板目取り(のこぎりで木を4分割し、木目に沿わずに板材を取る方法)」があるとの事。柾目は高樹齢の大径木からしか取れず、板目に比べて手間が掛かり、加えて幅広の板を取る事が困難。時間が掛かり、不揃いになって無駄な部分が出てしまい、直径46∼60cmの太い木からでもせいぜい15∼20cm位取れれば良いところだという。しかし木の性質としては、ほぼ平行に、そして均一に木目が並んでいるので、反りづらく割れにくい。以上の理由から必然的に高価格となってしまう。
(3)板挽き後も自然乾燥される。その理由としては、気孔が開き、樽になった後も空気の浸透を可能にする事、加えて乾燥の間に樽自体の欠点や不整形が明らかになり、選別が出来る為である。1cmの厚みにつき凡そ6ヶ月間寝かせるという。詰まり6cmの板だと3年間必要になる。尚、木目が詰まっている方がワインの味が柔らかく、育成の早い木目の粗いものはワインの味も強くなるという。
(4)側板の加工には、削って厚みを揃える。鏡板の加工にも、削りに始まり、接着剤や金釘を一切使わず、木製の釘のみで行われる接合など、数々の工程がある。
(5)側板で樽の原型を形作る「レイジング」で、予め計算されて決められた数の板でぴたりと鉄輪に沿って並べて収める。
(6)熱い蒸気のトンネルを20分ほど掛けてゆっくりと通らせて柔らかくし、オーク材を火で炙って局面を与える工程に入る。開いている上部を機械で絞り、仮留めの鉄輪を嵌める。
(7)後の水漏れ検査の為の水をひと吹き樽に入れると、鏡板の取り付けへと移る。木材を精緻に組み合わせ、ぴったりと鏡板を嵌め込み、仮の鉄輪を外し、帯鉄(フープ)を取り付ける。こうして加工が終わった両板は寸分の狂いなく、樽として組み立てられる。
(8)液を注ぎ入れる為のダボ穴を開ける。そして専用のゴム栓を嵌め込み、高い圧力で樽の中に空気を吹き込む。中に水と高圧力の空気を閉じ込める事で、それらが外へと漏れ出してしまう箇所がないかを入念に調べる。
(9)その後、必要箇所にはくさび状の木片を打ち込んで補強。
(10)外側は綺麗に磨かれ、天然素材のニスが掛けられる。勿論空気の流通を妨げない程度で、これは単に汚れを防ぐ為だという。
4.種類(主要2種)と特徴
(1)フレンチオーク(セシルオーク)
<French Oak:(学名)Quercus Sessilis・Robur等>
スティルワイン用としては、アリエ県トロンセ産とニエーブル県ヌヴェール産が有名。約120∼200年経った木が選定、加工される。タンニンは比較的少なくラクトン(甘味)が比較的多い。芳香成分に富み、ポリフェノール等、バランスよく含まれている。トロンセ産は非常に緻密でしなやか、ヌヴェール産の方がヴァニラ香が付き易い。
コニャック用としては、目が粗く風味の抽出が多めのシャラント県リムーザン産が有名。約200∼260年のものが加工される。中程度の緻密さだが堅く木目が良い。タンニン、ポリフェノール類に富み、ヴァニリンやラクトンが特異的に少ない。タンニンが力強くバランスに優れている為、複雑でスパイシーな風味を付与する。
製法は「柾目取り法」。外気に対し伸縮が少なく隙間が出来にくく、穏やかな樽風味が望める。価格は木材使用歩合が20%と低い為、新樽1つ7,8万円と高価。加えて品不足となっている為、現在では東欧やバルカン半島産(1樽5,6万円)の物も使用されている。ボルドーやブルゴーニュを初め、世界中の高級ワイン生産に欠かせない。
(2)アメリカンオーク(ホワイトオーク)
<American Oak:(学名)Quercus Alba>
アメリカ中西部、ウィスコンシンからミシシッピに至る範囲が生産地。約80∼100年経った木が選定、加工される。タンニンが少なくヴァニリンやラクトン(甘味)が多い為、ココナッツやミルクキャンディーを思わせる甘い風味を付与する。製造方法は「板目取り法」。そのため樽の風味や荒々しい苦みが強く付く。価格は木材使用歩合が50%と経済的で、1樽3,4万円。ただ強度や保水性にはやや難点がある。旧世界ではスペインのリオハやシェリー、新世界ではオーストラリアで使用されている。
5.効果
(1)色素、香り、各種フレーヴァーの添加。
〈ⅰ〉大きさ:樽が大きくなる程ワインとの接触面積の割合は少なくなるので、大樽ほど樽からの影響は少なくなり、小樽ほど大きくなる。ドイツやシャブリなどの様に樽香を余り付けたくない場合は大樽が使われる事が多い。
〈ⅱ〉新旧(使用期間):新樽の方が初めに出るタンニン成分(樹液。熱により気化するため減少、即ちトースト度合いがライトな程タンニンが多く出る)や焦げ臭が強く付く。樽の影響に見合う強いベースワインでないと、樽香ばかりが目立つワインになってしまう。古樽を使う場合には、微生物管理をしておかないと汚れた香りが付く恐れがある。
〈ⅲ〉トースティング:樽の内側は多かれ少なかれ火で炙られている。元々は樽を組む際に、木材を柔らかくする目的で行われる作業だが、このトースト具合によってワインの色合いと風味が大きく変わる事が分かって以来、ワインメーカーは樽工場に焦がし具合の注文を付けるようになった。
トースト(焦がし)度合い | 特徴 |
ライト | ヴァニリンの抽出率が高く渋みが強くなる為、素直な樽香とクローブやナツメグといったスパイス風味が加わる。他にヴァニラ、シナモン、焼き立てのパン。 |
ミディアム | バターや炙ったナッツ(白ワインで典型的)、キャラメル香。多少焦がしが強いとコーヒーやココア、チョコレート、甘草等の甘い香りが付く。他に煙草や焼き栗。ワインの色の濃さにも明らかな影響が出る。 |
ヘビー | 焦げが膜となってヴァニリンの抽出を防ぎ、渋み成分は少なくなるが、トーストによる焦げみ成分が多くなる為、コーヒー等の甘い香りが更に強くなると同時に、葉巻、燻製、炭などの香りも漂い出す。他に焦げたパン、ゴム、阿仙薬。最もワインの色を濃くする。 |
(2)木目からの微量な蒸発による凝縮感。
(3)穏やかな酸素の混入による熟成感。
6.主な名称と容量
名称 | 使用地域 | 容量:L |
Barrique(バリック) | ボルドー コニャック |
225 300 |
Pièce(ピエス) | ブルゴーニュ ボージョレ シャンパーニュ アルマニャック |
228 216 205 400 |
Stück(シュテュック) | ドイツ(ラインガウ) | 1200 |
Fuder(フーダァ) | ドイツ(モーゼル) | 1000 |
Botte<複Botti>(ボッテ<ボッティ>) | イタリア(バローロ) | 500程度 |
Pipe(パイプ) | シェリー・ポート・マデイラ | 550程度 |
Butt(ビュット)又はBota(ボタ) | スペイン(シェリー) | 600~650程度 |
Puncheon(パンチオン) | (Buttより短尺) | 450程度 |
Hogshead(ホグスヘッド) | (Buttの約半分量) | 300~350程度 |
主要参考文献
山本博『ワインの歴史』、加藤定彦『樽とオークに魅せられて』、『児島速人CWEワインの教本』、ヒュー・ジョンソン『ワイン物語』、『世界大百科事典』、監修・辻調理師専門学校&山田健『ワインを愉しむ基本大図鑑』